はてなの毎日

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写真の芸術性

 先日、ザ・ミュージアムBunkamuraで開催中の「永遠のソール・ライター」という展示を観てきました。ニューヨークで活躍した写真家で、芸術写真の開拓者といわれている人らしいです。

 写真は工業製品であるカメラを使うために芸術の範疇から外れるのではないかという思い込みが私にはあります。この展示を観てその感覚は修正しなければならないと感じました。

 まず何を対象とするのか。そこにすでに芸術性があります。ライターの捉えたニューヨークなどの年の点描は極めて日常的な風景です。セットを組んだり、特別なモデルを用意したわけではなく町の風景なのです。ただその中の何に焦点を絞ったのかで、芸術の世界は開かれます。車の影からわずかに除く女性の靴にピントを合わせた作品がありましたが、これは偶然の産物であったとしても様々な寓意を感じさせてしまう索引になっていました。

 この写真家の有名な作品にガラスの反射や、雨などで水滴がついた状態でとった写真があります。いわば天然のフィルターを使っているのです。これらも私たちは一度は見たことがある、というより見慣れた普通の風景なのですが、それが写真となるといろいろなことを雄弁に語りかけてくるように感じるのです。

 写真の芸術性、可能性を開拓したソール・ライターの作品に触れたことで、日常の見直しをしたいという気持ちになっています。

教科書に載っている古典(4) 沙石集「猿、恩を知ること」

 今からそれほど昔ではない時代の話だ。伊豆の国のある所の地頭はその時若者であった。狩りをしたついでに猿を一匹生け捕りにして、家の柱に縛り付けておいた。その時は尼君となっていた地頭の母親は慈悲深い人であったので、「ああかわいそうに、どんなにか心細いことであろうよ。あの縄を解いて山へ逃がしておやり」といったのだが、家臣や若い家来たちは主人の考えを察して恐れ解放しないままでいた。尼君は「それならば私が解いてやろう」といって、縄を解いて山へ逃がした。

 これは春のことであったのだが、夏、苺が旬の時にこの猿が隙をうかがって、苺を柏の葉に包んで尼君に渡しに来た。尼君はあまりに感激し、愛おしく思って、布の袋に大豆を入れて猿にもっていかせた。

 その後、栗の季節になると、猿は先日の布袋に栗を入れて、隙をついてまた持ってきた。今回は、母親は猿を捕えておいて、息子の地頭を呼んで、事の次第を語って、「子々孫々まで、この場所では猿を殺させないと神に誓う証文を書きなさい。そうしなれば母子の縁を切ります」とすごい勢いで誓いの文章を書いたので、息子の地頭は、証文を書いて、その結果、現在に至るまで当地では猿を殺さないということを、ある人が私に語ったのだ。それがどこかは書かないでおく。

 人として恩を知らないものは、本当に畜生にもよほど劣る。近頃は父母を殺し、師匠を殺す者がいると、伺っている。切ない濁り汚れた末世の定めなのであろう。

変な英語

 最近、政治家が使う変な英語が気になりだしました。外来語は日本語にそれを差し示す語彙がないときに使われますがどうもそうではないようです。

 オーバーシュートやステイホームにとどまらず、ゴートゥーまでまるで一昔前の芸人のことばのような感じさえします。これらは日本語に置き換え可能な語であり、わざわざ英語?にする必要はありません。

 むしろ意味不明の外来語を使うことでことの本質から目を反らしているとしか言えない。政治家は分かりやすく説明する義務があると考えます。

弱み

 誰にでも弱みはあります。私たちは弱みだらけです。かつては弱みを見せることを恥辱と考えていました。今でもその考えは基本的には変わりません。

 ただ、最近は弱みを隠し遂せることができなくなりました。やりたくてもできないことはできないのです。開き直るつもりはありません。最後まで痩我慢は試みます。でもだめならば白旗を上げるのも大事な戦略だと考えるようになったのです。

 

三峡ダム

 中国の三峡ダムの上空からの写真が気になる形をしています。思った以上に劣化が進んでいる可能性を感じさせます。もっともこういう画像はいくらでも加工できるものであり直ちに事実だとは言えません。記録的な大雨が続いているとのことなのでどうか何事もないことを祈るばかりです。

オフラインのオンライン

 オンライン授業の方法を学んだ今年の上半期でしたが、いまはそれをやらなくてもいい幸せを感じています。やはり直接教える方が効率がいいのです。ただ、ここ数日のコロナウイルス感染者数の推移を見るに再び外出自粛要請があることは十分に考えられます。また、マイクに向かう日が来るかもしれません。

 さらに補習用の教材として動画の授業を併用することは意味があるのではないかと考えています。分からないところは何度も聞けるという方法が場合によっては奏功するかもしれないと考えています。生徒の理解度を高める方法としていろいろなことを考えていかなくてはならないといけないと考えています。

 ただ、オンラインで何でもできるという論法の方々はもう少し現場に取材に来た方がいい。教育はそんなに効率的なものではありません。

若さ

 若さがいつまでも保てたならと思うことがあります。この歳になるといろいろと不都合なことが出てきます。容姿容貌の変化は致し方ない。衰えてほしくないのは気力です。何かをやろうというときにそれを支える力が落ちていると実感することが多くなりました。老けないことを夢見るのです。