猶予
自分でできるから口出ししないで。やろうと思っていたのに、やれといわれたらやりたくなくなった。中学生にはよくある言葉です。そういう生徒は自分で物事を考えてこなかった訳ですから、この際自分でよく考えさせるべきです。やれこれ指示しても効果は望めません。
自分の人生が実は他人によって支えられて成り立っているということに気づくのは実はいろいろな手続きがいるようです。それは教科書では学べない。また、家族から感じとることも難しいことがある。他者の中で揉まれることの中から体得するようです。
だから、ふてくされる子どもたちにはそれでも君だけでは生きていけないということを学ぶ猶予を与えるべきなのです。
不快指数
気温の上下が激しく、湿度も高い。いろいろ悪条件がそろっているこの季節。凶悪犯罪のニュースが増えているような気がします。天候と犯罪発生との相関関係は完全には証明されていないようですが、ある程度は関係するような気がします。
最近、悲惨で残念なニュースが増えているのが心配です。もし何かの手立てでそれが軽減できるとしたらなにがあるのか。それも考えてみたいなどと考えています。
サービス業の本意
勤労の効率化に逆行しますが、私利私欲を度外視して仕事そのものに熱中している人には魅力を感じることがあります。特にそれが他者へのサービス提供の業務の場合、感動を伴います。他人のために骨身を削るような毎日を送りながら、当人にはその自覚はなく働くことに嬉々として生き生きと働いている。そういう人が増えたならばどんなによいか。などと考えてしまうのです。
サービス業とは何か。私たちは、少なくとも私はどこでいつその本意を見失ってしまったのか。それを考えてみたいと考えています。
フェイク動画
画像処理と編集能力の飛躍的な向上によって、実際には存在しない動画を合成することが可能になっているようです。SFの世界にある偽造動画が実は既に限定的ながらできてしまうようなのです。
写真から動画を作るこの技術は、例えば絵画に描かれた人物であっても振り向かせたり、目を閉じさせることもできます。参考とする写真が多ければより自然な動画が生成されるとのことで、すでに別の動画があればより質の高いフェイク動画ができる可能性があります。
現状ではかなりの工程が必要であると言われますが、もしこれが短時間でできるようになれば、動画が何かの証拠になるという常識が通用しなくなるでしょう。騙されないことへの警戒は大事です。百聞は一見にしかず、されど幻視に惑わさるること勿れ。
忘れられないは不幸
もしも記憶の保存期間が無限であったらと考えると、どうもそこには幸せな感じがしません。現実には物忘れのために犯した失敗が積み重なって後悔の山はすでに高くなりすぎて頂上が見えないほどになっているのですが、それでも記憶の限度があるからこそ救われていることはたくさんあると思うのです。
詳細なことを忘れ、大義を覚えているというのが理想です。しかし実際にはすべて忘れてしまうのが残念な事実です。でも、忘れるからこそ次のものを素直に受け入れることもできるのかもしれません。過去にあったことと照合し、現在を生きていくとしたらきっと現実の輝きはかなり異なるものになってしまいます。
忘れることの意味を考えてみなくてはならないと思います。そして忘れることができない人工知能との違いをこの意味でも考えていかなくてはならないと直感するのです。