はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

バイオリズム

 かつてはバイオリズムということがよく言われました。波状の連続曲線が様々な心身の要素の好不調を表したグラフを見ては、一喜一憂したものです。最近はあまり見かけません。

 あんなに単純なものかどうかは別として、確かに体調や感情の周期的な変化はある気がします。ただ、個々のものが独立しているのではなく、相互関係にあるので、単純な曲線ではないようです。

 あるいは明けない夜はないと思う人の作り出した幻想かも知れませんが。

音を描く

 恩田陸『蜜蜂と遠雷』はピアノコンクールそのものを小説にするというユニークな作品です。直木賞受賞作品ということですが、なるほど読み応えのある娯楽小説にもなっています。

 書評については別のブログに記しましたので、今回は音楽の文字による描写という観点で考えてみます。音を文字にすることは実はかなり難しい。音自体には言語表現は伴っていませんし、すぐに消えてしまうのが特徴です。すると、何か音以外のものに譬えるしかできません。明喩が基本になります。

 単調な音声でもそうですから、演奏になるともっと話は複雑です。しかも、芸術的レベルの高い演奏の描写は、ある意味言語表現の対極にあるとも言えるでしょう。言葉にならないほどの感動をもたらすのが名演奏なのですから。

 ただ、まったく言語化できないものはそもそも感知できないのだとも言えます。うまく言いあらわせないけれども、確かにあるイメージを想起させて、それらがいままでにない形で組成されている状態があるのでしょう。個々の部品は言語化されているのに、文にはならないといった感じです。

 『蜜蜂と遠雷』でも演奏の描写は音そのものの描写ではなくなっています。この小説の読みどころはまさにこの部分だと思うのです。

祭りの後

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 一昨日で閉じてしまったグランベリーモールは急に寂しい空間になりました。駅の出口の名称も正面口というそっけないものに変わりました。月末まで営業する東急ストアも15日まで休み。28日には完全閉店し、3月10日に近隣の仮店舗での営業になります。

 写真は昨日の20時頃の正面口ですが、行き場をなくした人たちが店舗の前に張られた告知を読む姿がここかしこで見られました。

 北口のロータリーは歩道部分の舗装もほぼ終わりましたが工期の終了予告が2月中旬からいつの間にか3月下旬へと変更されていました。というわけでこの町は急速に寂しくなってしまいました。

ロートルの出番

 おそらく自分にはいくつかやらなくてはならないことがあると思っているのですが、そのうちの大切な一つが職場の若い人たちへ仕事を教えることです。もちろん、自分のやり方が絶対素晴らしいなどという自信を持っていないので、一例を示してあとは考えてもらうというのが正確な言い方でしょう。後生畏るべしといいますが、むしろ後輩の方が優秀な人が多いというのが正直な実感です。

 ただどんな職場にもそこまで積み重ねてきたやり方とか慣習とか人間関係とかがあって、そのあたりことをひとわたり知ってもらうことがロートルの役どころなのだと考えています。そして、何よりも大切なのは出しゃばらないこと。できればさりげなく伝えて私が言ったことかどうか気づかないうちに自然にできるようになってもらえれば最高です。

 できるはずです。だって私は教員なのですから(と自分に対して言い聞かせています)。

買い物難民

 今日でグランベリーモールが終了します。約2年間で全面改装するとのことです。完成予定図によればもはやベリーの形ではなく、この名前としての営業がもしかしたら今日が最後になるのかもしれません。衣料関係のアウトレットとしてお世話になりましたが、残念なのはいくつかのファストフード店や、ペットたちのあつまる空間が消えることです。

 そして、もっと大変なのが日常品の買い物をする店が縮小されることです。東急ストアは月末まで営業し、3月10日に仮店舗で駅近くの別の場所で営業を再開します。明らかに売り場面積は減り、人口は増加しつつあるこの町の規模に合わない状況となります。近くの別のスーパーはなんと7時に閉店といういまでは珍しい営業形態であり、徒歩圏内の店はかなり減少してしまいます。コンビニエンスストアはあるのですが、やはり買い物が不便になることは否めません。

 もちろん、少し足を延ばせば隣町には中規模以上のスーパーが点在するため、致命的とはいえないものの、徒歩以外の手段を持たない人にとっては苦難の2年間になりそうです。

無意識なゆえに

 無意識のうちに人を傷つけることはよくあることです。無意識なので罪悪感はない。それがかえって深刻なのです。

 例えば自分は歳をとって体力が落ちたと嘆くまではよいのです。おそらくそこにはそんな自分を労わってほしいとか、大目に見てほしいという思いが隠されています。ところが、その嘆きの中にもう自分は終わりだとか、これ以上歳をとって状態が悪くなったら生きていけないとかいう表現を無配慮で使うとしたら問題があります。その周囲にはもっと年配の人がいるかもしれませんし、年配でなくても体力的な減退に悩んでいる人がいるかもしれません。

 私たちは小さな仲間内を形成し、その中では配慮をいきわたらせるのに、仲間以外の人にはきわめて無頓着になるという性格を持っています。それが物理的な距離よりも優先されるとき、可視可聴範囲の人の存在も無視してしまうのです。それが時にはトラブルのもとになり、精神的なダメージを残すきっかけにもなります。

 無意識、無自覚な非難、中傷こそ私たちがもっとも気を付けなくてはならないことなのです。

震災を教える、震災に教えられる

 中学生に東日本大震災について考えさせようと考えています。私にとっては6年前はついこの前のことですが、中学生諸君にとっては小学生になったばかりであり、記憶は曖昧です。覚えていたとしても幼い子どもの視点でしか捉えられていません。まずは事実関係を調べさせることから始めなくてはならないでしょう。

 大切なのは震災が残した様々な問題を見渡せるものの見方を教えることです。何が問題でどう対処すべきなのか。達成できたことは何で、何が課題なのか。それを判断する目を養うことが教育の果たすべき役割です。

 いまだに多くの方々が避難所での生活をしていることや、原発廃炉計画の想像を絶する困難、被災者の心の傷の深さ、信じ難い差別など、他にもいくらでもある問題に気づかせなくてはなりません。答えは分からなくても考え続けることの意味を伝えることが肝要なのです。