はてなの毎日

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大学進学の意味

 大学に進学するのにはどのような意味があるのか。大学が就職予備校のようにも考えられている現状において、本当に必要なのは何かを考える必要があります。

 こどもの頃はみんなが平等であればいいのにと思っていました。基本的にはいまもそれほど変わりはありません。一方で能力が高い人や一生懸命働いている人にはそれなりの報酬を払うべきだと思うこともありました。よく考えてみれば明らかな矛盾です。社会は序列を作りたがる。そして、それによって体制を維持しようとするようなのです。

 身分制の社会では人は生まれながらにして自らのステータスが決められていました。それが変わるには革命のような大きな社会変動が必要です。日本においては明治時代以降に現在の社会制度の基本が出来上がったといわれるのですが、詳しく調べるとさらに変動があります。

 身分制度が崩壊した後に日本の社会の序列の軸となったのが学歴でした。しかもこの学歴というのは、教育を受けさせるための環境とセットになっていましたから、裕福な家庭は進学がしやすく、そうでないと能力があっても学校には行けないという状態が長く続きました。現代でも厳密にいえばこの条件は変わらず、有名大学進学者の家庭の平均年収は高くなっています。

 学歴が社会的ステータスの上昇の指標になるのは多くの社会に共通します。ただ、日本の場合はこれが卒業大学名もしくは成績簿の数値で評価されるようになったことに問題があります。特定の大学を卒業しなければ就職が認められないという企業は今でもあります。また、採用の際に大学の成績表を参考にすることはあっても、そこで何を学びどんな経験を積んだのかまで選考材料とする企業はまだ少ないのが現状です。

 しかし、日本社会が減衰傾向にあり、人材不足もあってこれからの人事はより個人の業績や経験を問うものにシフトしていくことは間違いありません。かつては無の状態から育てていくというのが日本企業のありかたでしたが、そんな余裕はなく即戦力を求めているのです。

 年功序列型の給与体系も変化を遂げつつあります。新入社員に破格の給与を支払う企業も出てきました。能力のある人には年齢に関係なく責任のある仕事をさせる。ただし、目標を達成できない場合は減給や解雇もあるという契約を結ぶようなのです。そうすると大学に行く意味が変わってこざるを得ません。

 つまり、大学は自分に付加価値をつけるために行く学校ということになります。ただし、かつてのように名門大学を卒業すればいいというわけではない。また、要領よく成績表に「優」を並べるだけでも物足りない。大切なのは大学で何を学んだのかをはっきりと言えることであり、得た知見によってどのような行動をしたのかということになります。名門大学には社会的な成功体験が数多くあり、優秀な研究者や研究機関があるので、依然としてそこを目指すのに価値があることは変わりありません。むしろ、今まで以上に大学選びは重要になってくる。変わってくるのは卒業することが目的ではなく、そこで何を得るかが要諦となるということなのでしょう。

 これから大学を目指す皆さんにはぜひ、豊かな学生生活を送ってほしい。そして、自分のためにそして結果的にその周辺の人々のために活躍するリーダーになってほしいと切望する次第です。

 

書きだすこと

 様々な思考整理の方法を説く本を読んできましたが、多くに共通するのが自分の考えていることを書きだすということです。最近読んだバレットジャーナルという方法では、デジタルではなくノートに書きだすことを勧めています。デジタルは便利だが他への入り口が多すぎて意識を集中できない。今あることに意識を向けるマインドフルネスの方法として一冊のノートに向き合うことが大切だというのです。

 私たちは物事を考える上で「調べる」という段階に拘り過ぎて「考える」ということが疎かになっています。さらには「想像する」「創作する」と続く思考の流れが「調べる」で止まってしまっているのです。他人が提供した情報を並べて分かった気になってしまい。自ら考えることをしなくなっているのです。たくさんの情報を検索し、いろいろな知見に触れても一向に身になっていないと感じるのは、自らが主体的にそのことを考えていないからなのでしょう。

 AIが進歩すると「調べる」という段階は自動的に行われます。例えば、この地域で一番あるものが安く帰る場所はどこだろうということを調べる際、今はスクリーンを何度かタップして検索すると幾つかの候補が出てきます。恐らく数年後には小声で独り言をつぶやくだけでスマートフォン(かそのような機械)がささやいてくれる。それがワイヤレスイヤホンのような形になっているかもしれないし、サングラスかもしれない。そしてさらに何年後かには例えばコンタクトレンズのようなものを装着すると、答えが脳波に反応して浮かび上がるというものもできるかもしれない。

 でもこれは他人が(AIが)調べたものであり、自分の頭は使っていない。考えるということをしていないのです。考えることを放棄すれば私たちは他動的に動くしかありません。操られるということになります。操作する方に悪意があれば私たちはその悪事にそって行動してしまうことになるわけです。

 自分の思考や行動を振り返り、さらに発展させるためには「考える」という行動が欠かせません。論語に「学びて思はざれば則ち罔し」という教えがありますが、まさに思考は今後の世界に最も必要なことでしょう。

 ノートに自分の行動や思考、これから何をしたいのかを書きだすという素朴な行動は実はとても大切な自照行為であり、次につながる何かを生み出すきっかけになるのかもしれません。私はかつてから業務のメモをノートにして持ち歩いていますが、これをもっと積極的に活用していこうと考えた次第です。

夏太り

 夏休みになると体重が増えてしまいます。夏痩せならぬ夏太りです。これは教員としての働き方の問題点を浮き彫りにします。

 太る第一の原因は運動不足です。授業をしないだけでカロリー消費はかなり減ります。大声を出すだけで運動になりますし、数時間たっているだけでも違います。

 また、昼食を食べる時間があることも夏太りの原因です。というより、普段ろくに昼食をとっていないことの方が問題点です。食べる時間がないまま、忙しさで空腹を忘れるのです。

 つまり、夏太りは本来の自分の姿に戻ることともいえます。最近は身体に老化の気配が見えますので、ほどほどに太ることが大事なのかもしれません。

湖畔の宿でも

 湖畔の宿でわずかに過ごした日々を暑い東京の部屋で早くも懐かしんでいます。宿には数年前からWi-Fiが飛ぶようになっていました。また英語や中国語の注意書きが手書きで壁に貼られていました。田舎の宿でも国際化の波からは逃れられない。というよりむしろインバウンドが観光の支えになっているのが事実です。

 

古代米

 先日、古代米と称するものを食べました。小豆のような色がついた米で味はそう悪くはなくむしろこれからも食べたいと思えるものでした。

 米が主食であると日本人の食生活をまとめることは可能ですが、時代によってかなり違う米を食べていたことと想像されます。現代人のイメージする米食がそのまま過去には遡れる訳ではないのでしょう。

 衣食住のすべてにおいて、時代による変化を丁寧にみていかなくてはならないと感じています。