はてなの毎日

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学習無力感の背景

 かつては博覧強記は知性の代名詞でした。様々な知識を蓄え、尋ねると即座にこたえられる人物には惜しみない賞賛が成されました。ところが、最近はこれだけでは足りない、むしろそこには力点を置くべきではないと考える人が増えている傾向があるようです。メモリーと検索に関してはコンピューターにはどうしても敵わないことが分かってしまったからです。

 こうした考え方は学習無力感をもたらすことがあります。何を覚えてもパソコンには敵わない。困ったらインターネットで検索すればいいのだということになるからです。これを日々実感しているのは大人たちだけではありません。家だけではなく、学校でもコンピューターで検索することを教えられている子どもたちはより深く、学習に対する無力感を覚えているのかもしれません。苦労して暗記してもすぐに忘れてしまう自分の頭より、ネットにつながれた情報の方を上位に考えてしまうのです。

 学習無力感は様々な可能性をつぶしていきます。検索すれば出てくる情報はすべて過去のものであり、これから何をどのようにすべきなのか、何をするのが望ましく、何をしてはならないかといったことは分かりません。すべては過去のデータから導き出せる確率論の中で判断され、自らの生きる道や人としてこの世にあり続けるための方法を考える能力を奪っていく。それが学習無力感がもたらす未来です。

 私たちは情報の量で知性を判断してはならないのです。学習の量を判断するのが真の評価方法ではないかと考えるべきです。計算や言葉の学習はやはり大切です。多くの問題を説くこと、文字を覚え、歴史や科学の成果を覚えることが大切なのは変わりません。ただ、目的は多くを覚えるだけではなく、学習の中で自ら何らかの発見をさせ、それを明日の生き方に活用しうる可能性を見つけさせることにあるのです。学習することには無駄はなく、明日の自分を築くことそのものであるということを大人も子どもも実感しておく必要があるのです。