はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

ポルトガル語由来

 先日、とあるポルトガル料理店で食事をしました。日本人向けにアレンジしてあったのかもしれませんが、たいへんおいしくいただきました。鶏肉の料理でした。魚料理もたくさんあり、海洋国であることがよく分かりました。

 店内にポルトガルを紹介するいくつかの掲示や装飾がありました。その中で印象的だったのがポルトガル語由来の外来語です。カステラやカルタなどは知っていたのですが、「おんぶ」「ひりょうず(がんもどきのこと)」「たんと(たくさんの意味の方言)」などが外来語であったとは知りませんでした。中世の日本になかったものが大量に取り込まれ、それが言葉として残ったものといえます。

 取り入れられたものが時間をかけて和風化していくのは日本の文化史上の特徴の一つです。「さらさ」など現在のポルトガルでは消滅してしまった古語が、日本で残っているというのも興味深いことです。

 一方でポルトガル語になった日本語はというと、ポルトガル本国では少数だと思いますが、日本から多くの移民があったブラジルでは数多くの日本語由来ポルトガル語があるとのことです。大航海時代の交流は様々な痕跡を残していることになります。

 

風邪引き未満

 日較差が大変大きな毎日、空気も乾燥し始めていますので風邪を引きやすい環境になっています。通勤電車の中でもあちこちで咳なくしゃみが続いています。私も昨日の夕方は軽い目まいを感じました。風邪引きへの一線に足がかかった状態です。やらなくてはならないことが山積していますので、体調を崩している暇はありません。何とか凌げますように。

サラダでいける長ねぎ

 近くのスーパーで買ったJA門別の日髙軟白白長ねぎがあまりに秀逸なのでご紹介します。普通の長ねぎよりは長くそして軸は細いので、冒険する気持ちで購入しました。といっても普通のねぎと同じ値段だったので大したことではありません。

 このねぎの特徴は癖がないこと。辛みが少ないのでサラダで食べられます。ねぎをサラダで食べるというと覚悟がいる感じがすると思いますが、このねぎは美味い。ねぎだけを食べるという経験を初めてしましたが、これはなかなかいけます。

 いつも売っているわけではないので、これからは巡り合うことを楽しみにしたいと思います。

小説読解指導の工夫

 小説の読解を指導するのは実はけっこう工夫が要ります。小説の読みに関しては多様な方法があり、解釈も様々に分かれるはずなのですが、現在大半の学校教育で指導しているのは実はその前の段階なのです。つまり、様々な解釈をする前提として小説の基本構造を把握させることを目的としています。

 一般的に小説の読みには、

  1. 場面の把握
  2. 登場人物の設定と他の登場人物との関係性の把握
  3. 心情表現の把握

が求められます。もちろんその上には作家論的な問題や成立した時代、世相との関連などの視点もあるのですが、授業ではそこまでは扱えません。3つの項目は個々に独立したものではなく相互に関係します。つまり、場面が変われば登場人物の人間性や人間関係、さらには心情が変わるからです。

 小説読解が苦手な生徒はこれらの把握ができていないことが多いのものです。特に心情表現の中には、直接登場人物の感情を表現しない描写もあります。例えば行動によって心情を表現することはよくある方法ですし、単なる風景描写で登場人物の心情変化を表現することもあります。というより、風景描写も含めてすべての描写が作品展開上に何らかの役割を果たしているのであり、すべての描写に何らかの意味を読み取ろうとするのが小説の読み方の基本です。これは映画やテレビドラマでも同じことです。ただ、テレビの場合、CMがその効果を分断して台無しにしてしまうことが多いのですが。

 小説を入試問題のようなもので扱う場合にはこれらの視点を意識させる出題がなされます。この段階では出題者はある一つの解答を求める出題しかできません。多様な解釈ができるが私はこのように読む。それ以外の解答は認めないという設問は今の試験では認められていません。だから、小説読解といっても論理的なパズルを解くのと同じ方法をとることになります。

 再び小説読解指導の話に戻すと、もちろん上記のように入試問題に答えるための技能を教えることは必要です。ただ、やはり小説には多様な読みが存在するということを知ることも大切ではないでしょうか。多様な読みに耐える作品こそが名作であり、古典として伝承されるものだといえます。国語の授業ではこういった独自の解釈に踏み込むことも必要であると私は思うのです。

 作品に対するユニークな解釈を組み立てるには、まず、小説世界の仕組みを生徒に考えさせることが必要です。私は作品の実写化という比喩を使ってその指導を行うことを考えています。実写化するためにはそれにふさわしいロケーション、キャスト、小道具、大道具などの美術関係、衣装、演出などさまざまな視点が必要になってきます。それらの役割を仮想的に生徒に割り当て、それぞれのチームごとに話し合わせて、その後、それぞれのチームから一人ずつを割り当て再編成したグループで小説の世界をより深く考えさせるというものです。いわゆるジグソー法的な方法です。このグループに作品の主題を考えさせ発表させるというのを到達点に設定します。

 学校の授業の中でこれをやるためには生徒の割り振りをしっかりと行うこと、できれば図書館やインターネットなどを活用して生徒の情報収集の便を図ることなどの問題点があります。また、各生徒への評価方法としては各話し合いでの活躍度の評価(印象評価)、さらには各段階でレポートを書かせることによる方法などが考えられます。また発表時のパフォーマンスなども評価の対象になります。

 ただこの種の授業は教員が求める水準に深められるかどうかはかなり不確定要素が大きいため、実施には覚悟が要ります。また、一般的な解釈(のいくつか)を最後に「参考」として示すことはやるべきだと考えます。生徒が自由に考えました、はいそれまで、ではやはり不十分です。一般的な解釈を生徒が批判的に聞くことができれば、授業は成功です。なお、筆記テストは解釈に関わる内容ではなく、あくまで論理的読解の段階にとどまる部分から出題するべきでしょう。

 小説問題の指導には、誰もが同じ解答にたどり着く(はずの)論理的読解のレベルの指導と、多様な解釈を生む深い読解のレベルとがあり、その両方を指導することが求められている。そして解釈を伴う読解をさせるためには何らかの工夫が必要だということです。

価格設定

 安ければ売れるというのは単純な考え方であることは日常の経験から容易に分かります。いわゆるブランド品は価格を下げないことによってそのイメージを維持しています。素材や品質において明らかな違いがなくても、それまでの評価という信用性を商品価値にすることができるのです。

 逆に安価にすることによってこのブランドメーカーに挑戦する動きもあります。粗悪品は論外ですが、品質的には遜色はないのに安価な価格で商品を提供しているメーカーです。薄利ながらもある程度の評価が得られるならばシェアを伸ばすことができます。そのメーカーももし大成功を収めれば、ブランド化していき価格設定を上げていくという流れに乗るのでしょう。

 ものと値段が実は即応したものではなく、それを売り買いする人々の思惑によるものであることは考えてみれば面白いものです。

髪の色々

 自国文化が絶対でなく、様々な文化があって、それらを共存させることの大切さが求められているのが今日の常識となっています。

 大阪の高校で生まれつき髪の色が薄い生徒に対して黒くすることを強要していたというニュースが話題になっています。事実ならばとても残念なことです。文化的な尺度が偏っていると本質を忘れてしまうことがあります。文化の多様性やインクルーシブ教育システムが求められている現状において、髪の色の強要は逆行する行動であることになります。

 奇抜な色に染髪することが風紀を乱すことに対する指導はもちろん必要ですが、さまざまな風貌の人が存在することを認めるものの考え方を身に着けさせるのも学校の大切な役割です。今回の件は日本の学校がこれまで抱えてきたことの問題点を端的に示した事例ともいえます。