はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

冬期休業

 私の職場は一足早く今日から休業です。久しぶりに少しだけ寝坊しました。一段と寒い朝なので目が覚めてしまったのですが。

 短い年末年始の休みですが、この間に休養とともにすこし整理をしてみようかと思います。それは物理的な部屋の掃除もありますが、それよりも大切なのは頭の中の問題です。ルーティンワークになっているものが実は当初の目的をそれて違うものになっていることがいくつかあります。そのあたりをまず見直してみたいと思います。

 私にとっては休むことは、それ自体が難しくなっています。本当に休むという考え方自体を忘れてしまっています。休むのは次に動くための準備とどこかで考えており、その意味において本当に休んでいるのか分からなくなります。

 こういう考え方はもはや変えることができない。ならば別に休みを強制するのではなく私なりにあたふたしながら過ごしてもいいのではないかと割り切ることにしました。休業は仕事をするための準備時間だと言い切ってしまおうと思っています。

経験の評価

 学校は生徒を評価する場所でもあります。指導の成果を検証するのが評価であると考えていましたが、最近はそれだけではなく、教えていないことまでが評価の対象になっています。

 学業成績さらにクラブ活動などの学校内の諸活動に加え、校外での活動までが人物評価の資料となることが今後主流になります。生徒にはそれを自己申告させ、その価値を判断する基準が評価者側に求められるようになります。

 それをどのように運用し、何を是とするべきか。試行錯誤が続いているのが教育の現場なのです。

意見そして理由

 自分の意見や感性を誰かに伝える場合は、まず意見を先に言い、その理由は後に述べるべきです。これは習慣にしておくべき基本的なスキルだと思うのです。これができると世の中の誤解はかなり減ります。

 ツイッターなどの短い文であっても書き手の意図をくみ取れず誤読して見当外れの反応をするといった例はよく見られます。そもそもツイッターはつぶやきであって反応を意図しないものであるのですが、SNSにアップする以上は他者に読まれることは意識するべきです。誤読が生じる発言の多くは結論が後の方にあり、それを見つけにくいのです。

 SNSに限らず文字コミュニケーションでは結論先出しは実務的な目的がある場面においては必須の型でしょう。それが効率の上昇に直結します。

 古典の説話を読むと分かるように伝統的な文章構成は具体例の後に結論が来ます。これは読者が謎解きをするような効果を生み味わいがあります。ただ、これには読者に余裕と集中を求めるものでもあります。

 現代の情報過多の状況ではこのような味わいよりも、伝わること誤解なきことの方が優先されるべきでしょう。その意味でもまず言いたいことを述べてから、その理由を後に付け足すという方法をお勧めしたい。国語の授業の発問に対する答えもそれを徹底したいと考えています。

プレゼント

お題「Merry Christmas!」

 クリスマスプレゼントの中でも印象に残っているのが顕微鏡と望遠鏡です。どちらも入門機ですが子どものおもちゃにしては高級であり、さしたる収入がなかった両親がよくも頑張ったものだと思います。

 恐らく親の思いは理系の方面に進むことだったのでしょう。当時は、末は博士か大臣かなどと言われ、ここで言う博士には科学者の意味合いが強くありました。経済成長を続けていた当時の日本にとって必要な人材は新技術を開発するエンジニアだったのです。

 親の思いとはかけ離れた今を生きる私ですが、ミクロとマクロの視点の大切さは察することができている訳ですから、親には十分に感謝しなければなりません。

次は何を引き換えにする

 最近、多くの店でポイントを付与するというサービスがあります。リピーターを獲得するための手法として昔から使われてきた手法ですが、それがコンピュータ処理され管理されたことによって、店舗を超え業種を超えてポイントが付くようになりました。つけられたポイントはネット上でも確認でき、現金代わりに利用することもでき大変便利です。

 しかし、多くの人が自覚しているようにこれは自分の消費動向の情報提供と引き換えにしています。どこで何を何時にいくつ買うのかといった詳細情報がポイントと引き換えに企業側にわたっています。ポイントシステムに加入する際には氏名のほか、性別、年齢、住所などを登録させられるので、これは商品開発や販売戦略にとって貴重なデータを毎日収集していることになります。巨額を投じて行ってきたマーケティング調査がリアルタイムでできるわけですから少々のポイント還元は損失にはなりません。また、少なくとも利用者側に利益が感じられるのであり、両者に得の関係を作れます。

 実は引き換えにしているのはそれだけではありません。ネット検索をしたことがあればわかることですが、何かを検索すると自分の興味のある項目が上位に来ていることが多いです。それは検索履歴を検索会社が把握しており、それが表示に反映されるように仕組まれているのです。また、閲覧履歴をもとにサイト内の広告が調節され表示されることがあります。これらも自分のネット内行動が他者に把握されていることを示しています。

 さらに最近スマートスピーカーなるサービスが広まりつつあります。これは音声やゼスチャーなどによって操作できる端末で、回答を音声で戻してくれるものです。AIの発達を実感できる機械であり、新鮮さもあって急速に広まる可能性があります。

Google Home(グーグル ホーム)

Google Home(グーグル ホーム)

 

Amazon Echo (Newモデル)、チャコール (ファブリック)

Amazon Echo (Newモデル)、チャコール (ファブリック)

 

 

 

ONKYO スマートスピーカー P3 Amazon Alexa対応/DTS Play-Fi対応 VC-PX30(B)
 

 

 でも、これらの便利さの背景には音声情報を常に企業側に引き渡しているという事実があります。常時接続された「盗聴器」を自ら自宅に置くことになるわけです。

 今私がいだいている危惧はおそらく正しいと思います。でも、使っているうちにその便利さや革新性に判断基準が揺らいできてやがて何でもないものになってしまうことは十分に予測できます。なぜなら、私はすでに多くの私的情報をクラウド上に保存しそれに対する不安が完全にマヒしているからです。

 音声まで引き換えにした私たちは次は何を引き換えにするのでしょうか。

言葉でないものを言葉にする

 現在求められている国語力に非言語的なメッセージを読解する力があると思います。図やグラフ、ピクトグラムなどの記号などを読み取ったり、自ら表現する能力が必要だとされているのです。

 コンピュータを触り始めた時にアイコンという言葉を知りました。ある事柄を一つの絵で表現するものです。マウスによる操作が一般化してマックやWindowsのパソコンのアプリケーションの起動のための仮想的なボタンとして画面上に現れました。もちろん、道路標識などそれ以前からピクトグラムは多く目にしていたのですが、パソコン操作をとおしてそれを意識したのは事実です。便利な記号としていつの間にか受け入れていますが、絵が何らかの意味を持ち利用者にそれを考えさせるという点において言語的なものです。

 絵文字という非言語でありながら文字と同等の意味を持たされるアイコンもあります。どうやら英語でもemojiというようですが、これも実は多様な解釈を生み出す記号です。同じ絵文字でもそれをどのように解釈するのかで意味が全く変わることがあります。その意味でこれも極めて言語的です。

 様々な資料を画面上に即時に展開できるようになった今、多くの人がさまざまな絵や記号、資料に直接触れ、そこから何かを読み取らなければならないことが多くなりました。そこには説明の言葉がない場合があります。記号や写真、図が何を伝えることを意図しているのか、グラフ作成者の意図は何なのか。それを掲示したものがグラフを通して何を伝えようとしているのかを読者側がいちいち判断していかなくてはならなくなったのです。

 非言語的なメッセージは直観的に分かりやすいものが多いですが、それゆえに誤解も生じやすい。また、発信側の巧みな情報操作もしやすいと思います。言葉にしてしまえば露骨に差別と判断されうることも巧みな図画にしてしまえば分かりにくくなります。偏見もさりげなく伝えることができます。非言語的なメッセージが言語化される過程におけるあいまいさが様々な問題を生じることがあるわけです。

 統計を図式化した表やグラフも客観性を装いながら、実は作成者の主観が多分に含まれます。何を取り上げるか、縮尺をどこに強調するかだけでも事実は別の形で表現できるのです。

 こうした多方面の非言語的な要素をいかに処理し理解するのか。その能力も実は国語の力と大きく関わっていることを考えなくてはならないでしょう。これは国語の授業だけではなく生活全体の中から学ぶことではあります。しかし、コミュニケーションそのものを扱う国語科がこの点をおろそかにすることはできないと思うのです。

 言葉ではないものを言葉にさせるというトレーニングを国語の授業の中でも取り入れていかなくてはならないと痛感しています。