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言葉でないものを言葉にする

 現在求められている国語力に非言語的なメッセージを読解する力があると思います。図やグラフ、ピクトグラムなどの記号などを読み取ったり、自ら表現する能力が必要だとされているのです。

 コンピュータを触り始めた時にアイコンという言葉を知りました。ある事柄を一つの絵で表現するものです。マウスによる操作が一般化してマックやWindowsのパソコンのアプリケーションの起動のための仮想的なボタンとして画面上に現れました。もちろん、道路標識などそれ以前からピクトグラムは多く目にしていたのですが、パソコン操作をとおしてそれを意識したのは事実です。便利な記号としていつの間にか受け入れていますが、絵が何らかの意味を持ち利用者にそれを考えさせるという点において言語的なものです。

 絵文字という非言語でありながら文字と同等の意味を持たされるアイコンもあります。どうやら英語でもemojiというようですが、これも実は多様な解釈を生み出す記号です。同じ絵文字でもそれをどのように解釈するのかで意味が全く変わることがあります。その意味でこれも極めて言語的です。

 様々な資料を画面上に即時に展開できるようになった今、多くの人がさまざまな絵や記号、資料に直接触れ、そこから何かを読み取らなければならないことが多くなりました。そこには説明の言葉がない場合があります。記号や写真、図が何を伝えることを意図しているのか、グラフ作成者の意図は何なのか。それを掲示したものがグラフを通して何を伝えようとしているのかを読者側がいちいち判断していかなくてはならなくなったのです。

 非言語的なメッセージは直観的に分かりやすいものが多いですが、それゆえに誤解も生じやすい。また、発信側の巧みな情報操作もしやすいと思います。言葉にしてしまえば露骨に差別と判断されうることも巧みな図画にしてしまえば分かりにくくなります。偏見もさりげなく伝えることができます。非言語的なメッセージが言語化される過程におけるあいまいさが様々な問題を生じることがあるわけです。

 統計を図式化した表やグラフも客観性を装いながら、実は作成者の主観が多分に含まれます。何を取り上げるか、縮尺をどこに強調するかだけでも事実は別の形で表現できるのです。

 こうした多方面の非言語的な要素をいかに処理し理解するのか。その能力も実は国語の力と大きく関わっていることを考えなくてはならないでしょう。これは国語の授業だけではなく生活全体の中から学ぶことではあります。しかし、コミュニケーションそのものを扱う国語科がこの点をおろそかにすることはできないと思うのです。

 言葉ではないものを言葉にさせるというトレーニングを国語の授業の中でも取り入れていかなくてはならないと痛感しています。