はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

高校デビューを担保したうえで

 教育の世界にも情報の一元管理を促進する動きがあります。これは生徒個人の指導履歴を過去にさかのぼって閲覧できることに加えて、部活動やボランティア活動などの課外活動の記録も検索可能にすることを目的としています。入学試験でもこれを取り入れる動きがあり、ペーパーテストだけではない総合評価の可能性を開くものであると考えられています。この方法はさまざまな問題を解決する一方、大きな弊害もあると思います。

 現行の教育体制では学年ごとに受け持ちが変わるのが原則です。また小中高と学校を変えて、そのたびに新しい級友と出会い、教員の陣容も変わります。各学年・学校の出来事を申し送る書類はいまでもあるのですが、どちらかと言えば金庫に直行する閉架型資料であり、活用されることは少なかったのです。それが電子データとなりネットワークでつながれると小学校での遅刻の記録も、賞罰の記録もすべてが瞬時に検索・分析の上、閲覧可能になります。

 教育上、このように過去の行動を知ることができるのは一定の効果があると思います。不可解な行動が実は過去のある出来事に由来していることが分かった場合、もしかしたら接し方の工夫によって理解することができるかもしれない。問題行動も解決するかもしれないといった期待です。学年、学校ごとに情報が分断されているために十分な指導ができていないという実情は確かにあるのではないかと思うことがあります。

 ただ、気をつけなくてはならないのは過去の出来事を読む際にそれをそのまま現在の生徒の姿と重ねすぎることです。人は成長するものであり、困難を克服した結果得られた姿というものがあります。それを過去のデータだけで安易な類型化をしてしまうと実態を見誤る可能性もあります。

 学校が変わるタイミングを使ってイメージチェンジをしたり、人間的な成長をめざす生徒がいます。それを中学デビューとか高校デビューとかいうことばで表現することもあります。私たちは時間に人工的な節目をつくり、それを超える時に何かを変えていこうとするものです。子どもにとってはそれが学年であり、学校です。教育情報をブロックチェーンにする際に、このことを考慮しておかないとかえって自主的な成長を阻害してしまう気がするのです。

 過去は変えられない、現在をよく生きることで未来を創るのだ。そういう考えを生徒に持たせることができなくなるなら、情報共有の意味はほとんどなくなると思います。要は運用の方法を間違えないことでしょう。AIにあなたはデータ上、今日はこのように生きるべきですなどと言われる時代にならないように。

長津田の大林寺に初詣

 横浜市緑区長津田駅の近くにある大林寺に初詣に行きました。この寺の創建は16世紀といわれ、当時小田原にいた北条氏に仕える岡野氏ゆかりの寺だそうです。山号は慈雲山といいます。

 

 その後、徳川の旗本になったことで寺社は継続することになったのですが、たびたび火災に見舞われてきました。現在の姿は平成になってからの再建です。そのため、新しい寺とはいかなるものかを知ることができる場所です。

 梵鐘はこの季節は誰でもつくことができます。住宅地の真ん中にあるのですが、今日は絶え間なく鳴り響いていました。

三社参り

 父が健在の頃、初詣は三社参りでなくてはとよく言っていました。三つの神社を詣でることをいいました。その根拠としてカメラの三脚をイメージしながら三つの神様にお願いすると安定するのだとよく言っていました。

 Wikipediaを見るとこれは全国に分布する民間信仰であるようで、父が子供時代を過ごした福岡県では特に顕著なのだそうです。それまでは父の独創というか思い込みと思っていましたがどうも地域の民俗を受け継いでいたようなのです。果たして根拠が三点支持による安定性かどうかは分かりません。多神教の国ならではの参拝形態であることは確かです。

 かつて渋谷区に住んでいたころの三社参りは明治神宮東郷神社それに産土の神の隠田神社でした。明治天皇東郷平八郎という近代の実在人物が神格化された神をまつる神社と由来不明の土地神様との組み合わせは何とも不思議ですが、歩いて行ける三つの神社をめぐると父はこれで今年は大丈夫だと必ず言ったことを思い出します。日本一の参拝客の明治神宮と勝守りをもとめる受験生が集まる東郷神社の混雑、それにくらべてのんびりとしている隠田神社の境内という全く雰囲気の違う社をめぐることも正月の年中行事でした。

 いまは一社参るのも億劫に感じてしまう為体。幸せは歩いてこない、だから歩いていくんだよ。

11年目

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 

 さて、何事も長続きしないのが私の欠点ですが、ブログを書くことだけは続けています。今年の目標も毎日欠かさず書き続けることです。

 私がブログを書き始めたのは2008年1月のことでした。それ以前はホームページの中にBBSのプログラムを作って日記のようなものを書いていましたが、ブログという概念が生まれ普及したあとは、いちいちソースコードを書かなくてもよくなり、気楽に日記が書けるようになりました。

 はてなに移った時もそれまでの内容を移行できたので10年前の記事もここから読むことができます。この10年の間には個人的にいろいろなことがあり、社会的にも政権交代や大震災など様々な出来事がありました。なるべく世相的なことにも触れるようにしてきたので読み返すといろいろな思い出とともに過去が髣髴とします。

 今年は11年目になります。相も変わらず心に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書きつけていくことになります。ただ、書きながら自分の考えを整理していることもあり、私にとってはそれなりに意味があるのです。これからも続けていこうと考えているのです。

今週のお題「2018年の抱負」

 

もう少し使えるかも

 Windows7で使っていたAtom小型ノートパソコンASUS Eee PC 1000HAはいまやubuntuの実験マシンとなっています。今回はその17.10にバージョンアップしてみました。どうも起動時におかしな表示になるのですが、一度スリープして立ち上げると普通に起動します。まだ使えそうです。

 現在メインで使っているパソコンに比べればさすがにすべてが遅く、もたつくことが多いのですが、一度ソフトが立ち上がればそれほど気にならずに作業ができます。今この記事もubuntu17.10上で動くFirefoxを使って書いているのですが、問題は特にありません。

 これで電池持ちが良ければ問題はないのですが、一度取り替えたバッテリーもすぐに劣化したのか公称値6.9時間には遥かに及ばず3時間程度で止まってしまいそうです。家庭内でのメモ書き用として、あるいは調べごとをする時の電子辞書がわりとして使っていこうと思っています。ASUSはこのマシンの購入時から比べると随分大きなメーカーになっていきました。買ったときは不良品だらけだというレビューが気になりましたが、私の使い方ではまだどこも故障はありません。キーボードも健在です。スクリーンも故障なしです。

 小さなパソコンは今とても欲しいものの一つなのですが、これが生きている限りはしばらくは余計な出費はしなくてもいいのかもしれません。

国語は授業では完結しない

 国語の授業の改革を考える中でいろいろ気づいたことがあります。国語のような基礎科目は授業の中だけで完結させるのは難しく、生活全般が教育の対象となるのではないかということです。これは実は当たり前のことですが、これまでは触れてはならないことでもあったのかもしれません。

 授業の中で教科書を読ませたり、意見を発表させたりすることが国語の授業の大半の活動です。同じ教科書を与え、それを読ませそこに書いてあることを聞く限りでは生徒は平等な立場で学ぶことができると考えてしまいます。しかし、同じ文章を読むのでもその背景にある経験や知識がことなれば読解できる範囲はおのずと変わってくるのです。いろいろな経験を積んだ生徒は、その経験に基づいた解釈をすることが可能ですが、それがない生徒は限られた情報で意味を把握しようとするだけです。少しでも知っている言葉がある場合はそれを手がかりにしていろいろなことを学ぶことができますが、それがなければ困難な作業が待ち受けます。

 本を読む前に生徒間の差がすでにあることを考えれば、教科書を読ませれば皆が平等に理解できるという幻想がいかなるものかを知ることができます。

 では、教員は何をすべきなのでしょうか。個々の家庭環境や家族の方針などについては助言はできても変えることはできません。また、中等教育のレベルまでくればすでに生徒の蓄積は相当なものがあり、その差を簡単に埋めることはできません。そもそもすべての生徒を同じ条件で教育するという発想こそが間違っているような気がしています。

 まずは経験や知識を得るチャンスを増やすことでしょう。教室にさりげなくおく、本や雑誌にメッセージを込めるという方法があります。現代社会が抱える問題を扱った資料を目に触れさせる機会を増やすのです。読書に対する興味をひかせるような工夫もいるでしょう。

 新聞の記事なども積極的に読ませたいところです。できれば教室に新聞があってもいいとさえ思います。芸能記事やテレビ欄しか見ない生徒が大半であっても、社会で起きていることに対する関心は自然と目に入るはずです。

 教員の「雑談」も意図的に経験値を増やす目的を考えて話したいところです。人に対する思いやりとか、自分とは別の文化を持つ人とのふれあいといった生徒が体験しにくい話を共有することが学力にも結び付きます。そういう経験をした生徒に話をさせるなどの相互学習も大切です。

 思うに国語教育は授業の中でだけでは完結しない。それが最近思うことです。

謙虚も美徳

 新幹線の重大インシデントについては間一髪であったとの報告があり驚いています。このところ公共交通機関のインフラに関する事故が数多く発生しており、日本の技術は安心だという信用が揺らぎつつあります。むしろ、これは安心というブランドを守らなくてはならないという要請から起きていることではないでしょうか。実力以上のものを提示するあまり、それが守れなくなっているのかもしれないと思うのです。

 残念ながらまだ完璧に物事を進めるまでの技術や運営力はもっていいないという事実を私たちは認めるべきだと思うのです。そして企業側にもそのことを隠さずに報告してもらう義務があると感じています。問題意識があれば改善する方策も出てくる可能性がありますが、隠蔽をつづけていればその可能性すらつぶしてしまいます。

 謙虚にできないことはできないと、間違ったことは間違ったといえることが今の日本には求められているように感じます。それが次のイノベーションを生む大前提なのだと思います。