はてなの毎日

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リアルな感動

 なんでもインターネットで検索し、知識が得られる時代になっていろいろなことを疑似的に済ませてしまうことが増えました。それはとても便利なのですが一方で生の感動というものが失われ、そこからさまざまな弊害も生まれていることは確かです。リアルな感動を得る経験はこれから一層貴重になってくるでしょう。

 スポーツ観戦や音楽の演奏会などに多くの人が集まり、感動を求めるようになっていることの背景には、現実生活でリアルな感動を実感することがどんどん失われていることにあるのかもしれません。実際には私たちが行っていることのすべてが一回限りの現象であるのですが、それを時間することができなくなっています。大量に生産された物品をつかって、都市という均質化された世界の中で暮らしていると自分の行動の唯一性というものが自覚できなくなる。そして己の言動に価値を見出せなくなっているのかもしれないのです。それが芸術やスポーツなどの非日常的なしかも卓越した演技を見るときに、その現場にいることへの独自性を実感できるのでしょう。

 リアルな感動をえることは人生においてかなり大切なことです。それが生き方を変えたり新しい考え方を生み出したりすることがあるからです。その考え方は日常生活の中からも実は生み出せるのですが、従前に述べたようになかなか実感しにくい。自分の生活を他と均質的にみてしまう傾向があるからです。だからちょっとした工夫をしなくてはならない。自分の生活はかけがえのないものであり、他にはないものであることを形や言葉にしていかなくてはならないのです。その意味で自分らしさを表現する方法を考えていかなくてはならないと考えています。

 こうしてブログを書くことものその行為の一つです。

芸術の力

 ウクライナ国立歌劇場管弦楽団のコンサートに行ってきました。演目はチャイコフスキー白鳥の湖」とベートーヴェン交響曲第9番」でした。第九はなぜか年末の風物詩になっていますが本来は季節とは無関係の曲のようです。ただ、いかにも年末を飾るにはふさわしい豪華な演奏と力強い歓喜の歌が印象的なので感動を覚えるのは確かです。

 白鳥の湖バレエ音楽でありながら楽曲だけでもストーリー性があり、情景が浮かび上がります。メリハリの利いた演奏でドラマティックでした。何度かバレエを見たことがあるせいなのかもしれませんが、バレリーナの姿が脳裏に浮かべながら聴きました。

 第九は合唱のある第4楽章はもちろんですが、その前の第3楽章がとても素晴らしく感じました。いつも合唱を期待して疎かに聴いていたのですが、この楽章があるおかげでフィナーレの力強さが引き立ちます。

 同じ曲でも演奏者がちがい、自分の立場が変われば印象が全く変わるものであることを改めて知りました。芸術の力はそういうことをいつも示し続けてくれることにあると実感しています。

自己暗示

 最近いろいろな場面で見聞きするのは自己暗示の大切さです。プラス思考という人もいます。その方法は呪文のようにある言葉をいうとか、あえて笑顔を作るとか様々です。さらにそれは単なる精神論ではなく脳科学的にも有意義だという意見もあるようです。

 子どもの頃からよく言われてきたことに、苦しい時こそ前を向け、自分を信じて勧めというのがあります。高度成長期あたりに生まれた無根拠な言葉だと思ってきましたがどうもそうでもないらしい。逆境にあってもなんとかできるはずだと思い込めばそれなりの成果につながるというのです。スポーツ選手も最近は笑顔でいる方が実力が出せるという人もいます。そういう例をいくつも見てきています。

 もちろん現実逃避の手段としてこういうことをしても意味がないはずです。真剣に取り組んでいるからこそポジティブな言動が生きてくるわけです。不真面目にやれというのではなく真面目にふざけるというのが、多少意味が違いますが分かりやすい比喩になるのではないかと考えます。

 来年の抱負として私もこの自己暗示というのを多用していこうと考えています。まずはやりたいことを多少無理しても意識して少しずつ実現していくということから始めてみたいと思います。このブログを続けることもその一つです。もう習慣化したので体調さえ崩さなければ続けることは可能でしょう。次なる目標として読者倍増、アクセス3倍増を目指したい。やればできます(自己暗示中)。ただこれは他人の行動なので私自身の目標ではない。もっと主体的なものを始めてみたいと考えています。

 停滞感、閉塞感の強い社会風潮のなかでいかにポジティブに生きるのかは思ったより難しい。しかし、いまやらなければいつできるかと考えるならばこの方面に関しては攻めでいきたいと考えています。

カレンダーをつくろう

 昨年までは取引先の企業名入りのカレンダーがいくつかあってそれを使っていたのですが、今年は贈答品の自粛などの影響で全くありません。百均でいくらでも売っているのですが、それもなんとなく癪なので自分で作ることにしました。

 余っているA5サイズのリングノートに曜日と日付を書き込めばカレンダーもどきが出来上がります。それをつるせばなんとなくそれらしくなるではないですか。暦を自分で作ったというちょっとした達成感もあります。

  なんでもないものは作らないといけない。そういう時代になりそうな気がします。モノがありふれているのにほしいものがない。ならば作ろうという流れになればそれなりに楽しめます。

不寛容な社会にならぬよう

 イオングループが接客時のマスク着用を禁止する方針を打ち出しているとか。一部の利用者からの声が聞き取りにくいなどのクレームに対応するという事情があったようです。イオングループのみならず、いろいろな現場でマスクを禁止する職場はほかにもあります。これには賛否両論ありますが、大切なのは寛容性が極端に少ない社会にしないようにすることです。

 確かに、マスクをつけて接客することに一定の不快感や不信感を感じることはあります。健康に自信がない状態で仕事をしているのではないかという疑念です。これに対してある人は保菌者であることを自覚していながら労務につくことの無責任だと言い立てます。ただ、それを自分のことに当てはめれば無理な話だとすぐに理解できます。ちょっと体調が悪いからといって仕事を休めるのか。体調の異変を悟られなければいいのかと考えてみれば、むしろマスクをつけて仕事をした方が誠実です。また、予防の目的でマスクを着用することにももっと寛容であるべきです。接客業をする人は自分とは違うんだと反論する人もいるようです。「お客様は神様です」というセリフを客側が言い始めた時、世の中はおかしくなります。

 イオンのようなスーパーマーケットには不特定多数の人が流動的に利用します。人手不足の中で従業員も限られており、中には体調不良をおして勤務につかなくてはならないこともある。そういう環境の中で予防策たるマスクを使わせないというのは経営者としては誤った判断だといえます。むしろ、マスクをつけた従業員がいなくなることへの恐怖感を調査した方がよいのではないでしょうか。経営規模が大きくなりすぎると現場の状況が分からなくなってしまうという典型例であると感じました。

 日本の社会が活力を失う中で先行的に表れている現象として他者に対する不寛容性があります。個人の幸福感に余裕がなくなると他者に対する寛容性が失われていくのかもしれません。思いやりにあふれる国だったはずでしたが、それも少しずつ古き良き時代の思い出になっていくのかもしれません。

 

ノートの取り方を教えよう

 当たり前だと思っていたことが見過ごされてきた気がします。国語教員にとってノートの取り方を教えることはその一つです。いろいろな方法がある中で誰でもすぐに実践できる方法は教えておくべきでしょう。

 私は授業をする前にノートを作っておかないといまだに心配してしまうたちなのですが、そのノートは教える側に特化したものです。しかし、生徒側の立場にも共通する要素は当然ながら多数あり、これを教えることは意味があると考えるようになりました。

 私の場合、ノートには板書(黒板に書く文字)と説明用のメモを色を変えて別に書いています。黒板に書ける文字数は限られており、私のような国語教師の場合は縦書きに書きますので天地の限度もあります。特に下の方は後方の席からは見えないので一行に書ける文字数はごく限られています。図説する方もいますが、あくまで言葉を教える国語教師にとってはなんでも図で書いていては勉強にならない。短く重要なことを文で書くことが大事です。それを生徒が書き写すことも考えればあまり長い文は書けない。板書することは説明の要点を構造的に示すことを中心に箇条書きとその構成を接続語で示すことを中心に行うべきだと考えています。

 さらに、板書はしないけれども大切なことを補足説明することがあります。これは考え方の手順を説明するものが大半です。国語とりわけ現代文の場合は用語を覚えるというよりは因果関係などの論理構造を可視化することが大事なので、それをメモできるようにキーワードが何であるのかを強調するようにしています。ノートを取らせるときにはこの板書はしないけれども大事なことを書かせる練習をさせる必要があります。具体的には時々、これは黒板に書かないが後で授業内容を振り返るときに大事だといって話を中断してメモを取らせるということをやっていくべきです。慣れてくればこれは自然にできるようになっていくはずです。

 授業の感想を書かせることも大事です。私はある方の著書から学んだ復習コラムを書くことをお勧めしています。授業の終わり、もしくは家庭学習においてその日の授業の要点や感想を数行で書かせておくのです。これで授業内容に対して主体的な取り組みができるきっかけができます。私の授業用ノートも一クラス終了した段階で、書き足したりけずったりすることをメモしたりしています。ノートは振り返りのための手段であり、単なる記録ではないことを生徒にも伝えなくてはなりません。

 ノートの書式や筆記方法については生徒各自が決めればよいのですが、何をどのようにすればよいのかということについては中等教育の間にじっくりと教えていく必要があります。これは社会人になってもデジタルで文書を作成するようになっても使えるスキルになりますので。