はてなの毎日

日々の思いを、思うまま

先生はいらないと言ってほしい

 教員なのに直接生徒に話しかけられないという状況が続いています。心配なのは生徒諸君の学ぶ力が損なわれることです。学校がなくなってかえって勉強できましたよと言われるならばいいのですが。

 学びの条件は自ら知を必要とする動機があることです。どんなに立派な教材と教具そして授業達者な教員がいても学ぼうとする気持ちがなければ効果は発揮できません。学校はいわば学ぶ気持ちを起こさせるための仕掛けです。テストや宿題もそれを引き出すための手段なのです。

 だから、本当は学校が閉鎖されていても学ぼうとする気持ちさえあればいくらでも学習ができます。自分のペースが保てる分、その方が効果が上がると生徒もいるはずです。ただ、学びに向かわせる存在はやはりいた方がいい。分からない問題に出会ったときに示唆を与えてくれるコーチは必要です。

 その意味で学校閉鎖は痛恨事といえます。先生なんて要りませんでしたと言ってくれる生徒が一人でも多くいることを願うばかりです。

震災忌

 震災から9年目になる今日、あの頃と今とを脳裏で比較しています。

 街のあちこちで電球が外され節電の名のもと暗い空間が広がっていました。ときには町ごと停電したり、そのために水道も使えなくなりました。毎日大気中の放射能濃度が発表され、わずかな数値の変化に過敏に反応していました。物資不足のデマが流れてスーパーで小競り合いが起きそうになりました。道徳喚起の公共広告機構の映像が繰り返し方法されました。死傷者数の死者の数がどんどん増えていくことに身震いしました。

 そういうことの繰り返しの中で私たちは大いに傷つき、また復活のための策を考えました。震災を思い出すと心が痛みます。ただ立ち直ることの大切さも思い出させてくれます。

必要なものを

 なんでも満たされた状態にあると錯覚していた状況から目を覚まされる事態が起きています。自分たちが享受していると思い込んでいたことが脆くも崩れてしまうということが分かりました。

 ウイルス騒ぎで分断された日常をいかに回復するかは今の私およびその周辺の深刻な悩みです。私たちはなんとしてもこの難局を乗り切らなくてはなりません。それなのに気力を失わせるような報道がなされ、気持ちは高まりません。

 こういうときは多少無理をしてでも気分を高揚させてやるべきことを自ら作っていくしかありません。失敗は折り込み済みで新しいことに挑戦していくのです。ないのもは自分で作るしかない。ない制度は自ら創設するしかないのです。必要になったものを創作することの大事さを痛感しています。

 

先取りかもと

 未来の日本の先取りかもしれない状況があります。それはかなり青白い手触りの空気です。

 ラッシュアワーの人が少ない。町に人がいない。人が語り合わない。メディアがいつも人間関係の間にある。落ち着かない。漠然とした不安感がある。何をやっていいのか分からない。何が報われるのか分からない。やってはいけないことがなんであったのか忘れる。

 価値観が揺れ動き何をやっても正解ではないと考えてしまう。自己肯定感が持ちにくい。他人の行動が気になる。ちょっとした違いが許せない。でも蔓延するコモディティ化する周囲の状況も気分が悪い。何一つ自分で決められない毎日、ただ一つ残された閉じた空間に逃げこもうとする繰り返し。

 そういうのっぺりした毎日の中で生きて行かなくてはならない日々がもしかしたらこの先くるのではないか。そんなことを考えさせるこの頃の社会情勢です。精神という名の背筋が曲がってしまわないように折りに触れて背伸びするしかありません。

古典の風景

 古典作品の読み方にもいろいろありますが、ゆかりの地を訪ねてみるというのも楽しみ方の一つとしてあげられます。

 古典作品の中に出てくる場所が現在のどこなのかを特定することは意外にも難しいのです。地名が変わってしまうのはもちろん、同じ地名でもそれが示す地域が移ってしまっている例も多いのです。有名なものとしては田子の浦があります。

 もっと考えなくてはならないのが地形そのものが変わってしまっていることです。周期的な温暖化や寒冷化などで海進の程度が変異していることに加えて、河川の流路の変化は想像以上に劇的なものです。

 建造物などの人工物や干拓や埋立がもたらしている景観の変化にも気をつけなくてはなりません。海岸部の地形はいろいろな要因で古典文学の風景が保存されている可能性は低いのです。

 さらにいわゆる自然のあり方も要注意です。いわゆる里山は人間が手を加えることで成り立っています。だから、それぞれの時代の技術的な要素に景観は大きな影響を受けるのです。さらに植生も気をつけなくてはなりません。桜の品種がソメイヨシノになったのは近代であり、古典文学の世界には存在していません。明治以降に様々な交流の中で渡来した帰化植物も非常に多いのです。

 過去の風景を想像することには様々な障害があるのですが、それ故に考える楽しみもあります。万葉歌人が見た風景を幻視する試みは総合的な学問成果で行なうべき、壮大なロマンでもある訳です。

休みになったけれど

 土曜日が休みになりました。コロナウイルス対策の一環として就業体系が変わったのです。今日はその最初の土曜日です。

 しかし、美術館や博物館の一部は閉館し、多くの商業施設が営業時間を短縮しています。うつるかも知れないという不安が外出を思いとどまらせています。景気が冷え込むための要因がそろってしまっているといえます。実際には目立った変化は見えていません。困っているのは花粉の飛散くらいです。

 覚悟を決めて行くしかない。人様に迷惑をかけないようにせめて他人との距離をとりながら歩くしかないと考えています。

差別にならぬよう

 新型肺炎感染予防策として中国と韓国からの入国を制限することが決定されたようです。これ以上の感染を防ぐための手段ということですが、水際作戦としては遅すぎ、差別にもなりかねない虞があるのは残念です。

 恐らく日本人も今後入国制限を受けることは間違いありません。風邪をひいたらよその家に行かないのはエチケットですから我慢するしかないでしょう。ただ、国籍だけで無差別に入国制限すると様々な弊害があります。困難な手続きもあるでしょうが必要な人的交流まで絶やすことがないように十分に配慮する必要があります。

 終息のめどがたたないことが大きな不安要素です。ただ自分の周辺に罹患した知人は誰もいないという事実も忘れてはなりません。恐れ過ぎずに恐れるという知恵が必要なのです。